上の宿館



所在地 秋田県湯沢市山田上の宿
様式 山城
築城年代
落城・廃城
築城者 山田氏
主要城主 山田氏
遺構 曲輪・虎口・切岸・堀切
おススメ度

<歴史・概要>
南西から伸びる尾根の自然鞍部を3回にわたって堀切り、最大下幅4m、深さ10mを計る。主郭は130*40mの規模をもち、自然地形を利用した連郭性平坦面は十数面を数える。西と北には最大幅20mの腰郭が1〜2条半周しため井戸と考えられる凹地も3箇所以上ある。
主郭に小祠があり大手口には土居状の台地が残されている。

<山田氏>
山田氏は雄勝郡山田(湯沢市)を拠点とした国人で小野寺氏の一族と考えられている。
西馬音内氏と同じく早くに惣領家から分出した一族と思しく西馬音内氏と共に由利郡の国人小笠原氏に庶子を入嗣させてこれと結んだり、西馬音内氏と共に由利郡の国人を攻めるなど独自の活動が伺える領主であった。

<仙北干戈(せんぼくかんか)>
天正十五年(1587年)から天正十六年(1588年)十月まで続いた小野寺氏と六郷氏、山田氏の対立を仙北干戈という。
天正十四年十月以前に小野寺輝道は光道に家督を譲り自身は隠居した。しかし、光道が急死し義道が家督を継承する。光道の室は六郷兵庫守の娘とあり光道没後に六郷兵庫守は義道と娘を再嫁させることを望んだが義道はこれを拒否した。その結果六郷氏は小野寺氏と対立し合戦に発展した。
その後山田氏も小野寺家に反旗を翻し対立した。仙北の安定の為山形の最上義光が仲介に乗り出してきた。家臣の鮭延秀綱を仙北に派遣し和睦の仲介に当たらせた。しかし山田に入り和議斡旋を試みるも不慮の事態が発生し山田氏を支援する鮭延氏と小野寺氏の攻防戦が繰り広げられた。
その後、鮭延秀綱は由利諸氏や戸沢氏、本堂氏、西馬音内氏と協力し小野寺氏と六郷氏・山田氏と和議を成立させ帰陣した。

大手口と推測される磯崎神社

東側から山中に入り主郭を目指します。ここから段曲輪が続きます。

段曲輪。

段曲輪。面積の広い平坦面があり相当数の人数の収納が可能です。

段曲輪。

段曲輪は斜面を急勾配に削られていて敵の侵入を妨げています。

段郭。

段曲輪。

切岸。高さと急勾配にちょっと怯みますが斜面にへばり付き登って行きました。
櫓の機能も想定されます。

切岸にはシャガが生えていました。シャガの葉は滑りやすく引っ張るとすぐに抜けてしまいます。
斜面に植えて敵が登ってくるのを妨げる効果があります。

切岸を登ったところです。一段高いのが主郭です。

主郭側面も切岸で処理されています。

主郭側面も切岸で処理されています。

主郭虎口。

主郭。130*40mの規模。
充分な居住スペースが取れます。上の宿館の比高はさほど高くなく城主山田氏の住居も置かれていたのではと思いました。

主郭に祠がありその中に祀られている像。

主郭南側の堀切。

主郭南側堀切。上から見下ろす。

南側へ進んで行くと空堀があります。

空堀底から見上げる。

切岸。上の宿館は切岸を広い平坦面を多用した城館です。

南側端の空堀。

城内は自然地形を利用した平坦面が多数あり、かつ面積も広いものが多いです。
比高も高くない広大なこの山城をどの様に守備するつもりか考えさせられました。
周辺の集落をみても動員数はたかが知れています。

尾根筋も削平し曲輪が作られています。

曲輪。

館を踏査して思ったのが上の宿館と西馬音内城は同じ性格の城館では?と思いました。

上の宿館の詰め城部分は前出の切岸(櫓)から主郭に掛けての区域でそれ以外が家臣の居住スペースとして利用され、

西馬音内城も隅櫓から本丸・二の丸が詰め城で飯塚館などの曲輪が家臣の居住スペースなのではと考えました。

ここを拠点に山田氏は山田地区を支配したと考えます。

曲輪。

井戸跡と思われるくぼみ。

館内にある祠。
主郭にある祠と同じような像が祀られています。踏査に来た日がお祭りだったのでしょう。
山へ入ろうとする時に地元のご婦人達が山から下りてくるのに出くわしました。ここへお参りに来ていたようです。
その方からみれば自分はさぞかし怪しい輩に見えたことでしょう・・・

門がありましたが入ってはいけなかったのでしょうか・・・

館近くの六日町の市神。
毎月六日に市が開催されていたのでしょうか?