柳田城



所在地 秋田県湯沢市柳田字堀回
様式 平城
築城年代
落城・廃城 慶長五年(1600年)
築城者
主要城主 柳田治兵衛
遺構 神社・宅地化により消滅
おススメ度    

<歴史・概要>
「奥羽永慶軍記」に柳田治兵衛、「雪の出羽路」に柳田治兵衛尉藤原定道とあり共に小野寺家臣と伝える。機能した期間は定かでは無いが慶長年間に最上方により落城したと伝えられる。神社・宅地化で遺構は消滅している。

<柳田治兵衛、大谷の郎党を討つ(奥羽永慶軍記)>
小野寺遠江守義道(横手城主)が領有している山北・平鹿・雄勝の三郡うち雄勝の半郡は最上義光が切取り一門の楯岡豊前守満茂を湯沢城に置いた。
太閤秀吉没後に徳川家康の命で出羽の国の情勢視察の為に大谷刑部少輔吉継を遣わした。大谷は越後の国に入り配下の馬渕五郎兵衛を遣わした。馬渕は六、七十人の部下を率いて庄内、由利を経て山北に入り湯沢城に逗留した。馬渕は代官として三人の武士に領内を巡回させた。しかし、この三人は御上使なりとわがままな振る舞いが多かった。この振る舞いに小野寺家郎党柳田治兵衛が大いに怒りこの三人を討ち取る決意をする。しかし、三人の代官は一所に巡ることがなく三方に分かれて巡っているので一泊したところで同時に討ち取らんと考え平鹿・雄勝の城主に密使を遣わして伝えたところ西馬音内式部少輔、山田民部少輔(上の宿館主)、松岡越前守(松岡新城主)浅舞刑部、土肥次郎(増田城主)深堀佐馬、河熊太郎、植田与九郎、新田目、鍋倉、今泉などが「もっともなり」と同意してくれた。
討ち取った合図に狼煙を上げる手筈になっており一番に浅舞から合図があった。今泉を経て柳田に来た代官も治兵衛に討たれた。しかし、増田城主土肥次郎が心変わりし代官にことの仔細を打ち明け代官を逃がしてしまった。助かった代官はこのことを湯沢城主楯岡豊前守満茂に報告した。楯岡豊前守から最上に加勢の要請が行ったがこの時は慶長三年の大雪だった為にこの年は柳田城は攻撃を受けることがなかった。

<柳田落城と円通寺の奮戦>
柳田城攻撃の報がもたらされたのは慶長五年十月二十一日だった。最上家臣、鮭延典膳の家来に柳田治兵衛と関わりがある者があったので早く落ち延びるように進言してきたのであった。しかし治兵衛は一戦交えて討ち死にする覚悟を伝えた。治兵衛は杉ノ宮吉祥院の別当に二人の幼子の養育を依頼し夜中に訪ねてきた小松弥八郎に託した。
十月二十二日に柳田城の攻撃が開始された。最上軍は一万余騎の大軍で押し寄せ対する城兵は五百余人であった。この中に円通寺の僧兵がいた。背丈が1m80cmを越す大男でその強力で弓を放ち最上軍の将兵を射倒した。しかし、矢が尽きてしまい城内に潜み攻め入ってきた最上勢の武将の首級を狙うが失敗に終わり最後は最上兵を脇に抱えて雄物川へ飛び込んで死んだ。以来彼が入水した場所を円通寺淵と呼ぶようになった。

<柳田治兵衛の二人の童子のこと>
城中の兵は全滅し孤児が残された。最上の足軽達はこの孤児らを自分の養子にせんと肩に担いで連れ帰った。足軽達は山形へ帰る為に支度していたが柳田治兵衛の子供を発見出来ない為、小泉讃岐の命令で孤児を一人一人調べたが見つからず最後は孤児全員を殺害してしまった。足軽達は皆涙を流して嘆いたという。

柳田城跡は現在は神社となっている。遺構は消滅しているが掘回の字名が現存しています。

神社境内

柳田城遠景。