川連城



所在地 秋田県湯沢市川連町字川連
様式 山城
築城年代
落城・廃城 文禄五年(1596年)?慶長二年(1597年)? 慶長三年(1598年)?
築城者 梶美作守 川連系小野寺氏
主要城主 小野寺道俊 小野寺道基
遺構 曲輪 段郭 空堀 櫓台
おススメ度

<歴史・概要>
別名、黒滝城とも云う。城郭は上方南北の稜線に展開し、まとまりを持つ三つの郭郡よりなる連郭式で北端の郭群は五段の帯郭を成し、その南に比高5mで四段の帯郭群がある。この間は上幅5m基底幅2mの空堀で遮断される。東に犬走り・腰郭が認められる。主郭はこれに隣接する東西30m南北60mの平坦地で南東隅に高台を持ち、明神社を祭る。南端は上幅10m深さ5mの薬研堀で遮断される。

<川連城築城>
川連城が築かれたのは源義家東征の「後三年の役」の頃と言われている。
築城したのは清原武衡、家衡の一党の野武士団で首領は梶美作守と伝えられている。
その後雄勝郡に入部した小野寺氏が更に築城し居城したとされる。
貞和五年「陸奥国先達檀那系図注文」に「出羽国山北山本郡いなにハ殿、かわつら殿、此人々ハ大弐殿先達申し候、常陸法眼房弟子の大弐房にて候、」とある。
小野寺正系図は十六世紀中葉に小野寺晴道四男道俊が川連氏を名乗ったと伝えれている。

<川連城落城>
最上義光は雄勝郡東部の小野寺一族の三城(川連・稲庭三梨)の攻略に着手する。
川連城には楯岡満茂を大将に2500余人で攻め寄せてきた。高田右馬之助や城主小野寺道基の防戦むなしく落城してしまう。

川連集落入り口。川連城址は鍋釣山(写真の丸い山)と国見岳の間に位置する。

川連城入り口付近。不思議と雰囲気が出ています。

登城道入り口にある鳥居。ここから主郭を目指します。

最初はきつい傾斜の登り道は途中からこの様に変化します。堀なのでしょうか?

登城道の行き当たったところから段郭が続きます(下から見上げたの図)

段郭

段郭

段郭

段郭

主郭。結構な広さがあります。

主郭には高台があり明神社が祭られています。高台は櫓台として利用されたと思われます。

神社境内

主郭背後(城南端)を断ち切る空堀。

治山ダムの配置図。ウナリ沢(城主道基が戦死した際にその首がうなりを発して落ちていったという沢)やオヤシキ沢の名が見えます。

川連城の出丸と言われる平城遠景(湯沢市稲川庁舎)

平城跡(湯沢市稲川庁舎)。