西馬音内城



所在地 秋田県羽後町西馬音内堀回字浦田山
様式 山城
築城年代 建治三年(1277年)
落城・廃城 慶長五年(1600年)
築城者 小野寺直道
主要城主 西馬音内小野寺氏
遺構 横堀・竪堀・曲輪・堀切・隅櫓・井戸
おススメ度

<歴史・概要>
東西は急峻な崖で南から伸びる尾根は鞍部の深さ1.5mの堀切、深さ2mの空堀で防御。
連郭性平坦面を持つ城内は現存する「語伝仙北小野寺ノ次第」添付古絵図によって主郭・二の郭・櫓台などが明らかにされている。縄張の内外に飯塚・黒沢など家臣の居館が配置されている。主郭に井戸、庭跡が確認できる。
大手道は北に延びる尾根道で主郭、二の郭南方の空堀道が搦手と推定される。23haの広大な縄張を持ち秋田県指定史跡になっている。

<西馬音内城築城>
文治五年(1189年)雄勝郡に入部した小野寺経道は稲庭に本拠を構え湯沢と西馬音内に支城を築き二男道直を城主(建治三年1277年)に任じた。出羽山地を境にしている由利勢に対する押さえの機能を担ったと推測される。

<西馬音内小野寺氏>
歴代城主は道直→□→道兼→道□→道鄰→昵道→茂道と伝えられている。
天正十八年(1590年)小田原参陣に際して城下に役銭を賦課した記録が残っている。(石垣家文書)
これにより城の存在と城下町が形成されていたことが判る。

<大井満安最期の地>
小野寺茂道と娘婿であった大井満安だったが長年の仇敵仁賀保挙誠に攻められ西馬音内城に落ち延びてきた。満安の存在を脅威に思う由利十二党は小野寺宗家の義道に奸計を用い西馬音内城を包囲させる事に成功する。茂道は抗戦の構えを見せるが舅の苦慮を思い城内で自刃したとされる。

<最上軍の雄勝郡侵攻>
最上軍が楯岡豊前守満茂を大将に有屋峠を越えて雄勝郡へと侵攻してきた。西馬音内城主小野寺茂道をはじめ関口城主佐々木春道、松岡越前守、深堀左馬等が最上家に付いた為に湯沢城は落城し雄勝郡は最上家の支配下に置かれることになる。

<西馬音内城廃城>
その後再び小野寺方に付いた茂道だったが慶長五年(1600年)の関が原合戦の際に小野寺家は西軍の上杉家と共に対立する最上家を攻撃し湯沢城を包囲する。しかし、西軍敗退の報が伝わると攻守が入れ替わり小野寺家の諸城館が攻められることとなる。
茂道は最上軍の西馬音内城接収の際に城に火をかけて庄内に落ち延びたとされる。子孫は久保田藩(秋田)に仕えたとされる。

<西馬音内盆踊り>
1288〜93の正応年間、源親という修行僧が御嶽神社(当時蔵王権現)を勧請して、ここの境内で踊らせたものという説があり、これが1601年(慶長6年)西馬音内城主の小野寺茂道一族が滅び、その家臣たちの子孫が主君をしのんで8/16〜20までの5日間に西馬音内寺町の宝泉寺境内で行った亡者踊りと合流し、さらに1781〜89の天明年間に本町通りに移り現在まで継承されてきたものと伝えられています。


登り道。浦田山十三森へと続きます。

浦田山十三森。土盛が十三基確認できる。最上氏との戦いの際の死者が埋葬されているとも城主の姫と侍女が生き埋めにされたとも言われている。十三基中二基を発掘調査したが埋蔵品は見つからなかったとされる(秋田考古学10号1958年)

浦田山十三森を過ぎたあたりにある堀切

前出の堀切の近くにある竪堀。

なんらかの施設があったと想像できます。現在は祠が祀られています。

隅櫓跡。二の丸、本丸など奥に進むにはこの櫓の下を通ります。

隅櫓は巨大で城内でも重要施設と想像されます。

隅櫓の上から登城道方向を見ています。

隅櫓の脇に竪堀があります。

隅櫓の脇に竪堀があります。

この曲輪が飯塚館でしょうか?

飯塚館虎口

飯塚館と城内の郭を分断する空堀(堀切)

西馬音内城二の丸

西馬音内城本丸

本丸にある井戸

本丸南側にも曲輪が確認できます

本丸と南側の曲輪を分断する堀

大井満安自刃の地。本丸の背後にあたります。

竪堀

竪堀


西蔵寺山門。西馬音内城からの移築と伝えられています。