合川城
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所在地 | 秋田県湯沢市相川字古館山 |
様式 | 山城 |
築城年代 | |
落城・廃城 | 天正十四年又は文禄二年 |
築城者 | |
主要城主 | 小笠原能登守高恒 |
遺構 | 曲輪 切岸 |
おススメ度 |
<歴史・概要> 東から伸びる東鳥海山の尾根端部に位置する。自然の尾根鞍部に1条の堀切を設け最高標高の50×15mの主郭に連続する十数個の連郭性平坦面をもつ典型的山城の様相を呈する。各郭は、尾根線を利用しており地形に制約され小規模でその比高も大きい。周囲は急峻な崖で囲まれており、南に延びる尾根を小規模な3条の堀切や段によってこの方向の防御に力を注いでいるのみである。「奥羽永慶軍記」「雪の出羽路」に小笠原能登守高恒とあり、小野寺氏の臣で最上の臣鮭延典膳との戦いは永慶軍記に詳しい。(天正十四年又は文禄二年)付近には内ノ目、外ノ目、要害、古館ノ下、古舘山の字名が現存し南方尾根端部に御嶽社がある。板碑の分布じょうたいからすれば当時の街道は横手盆地の東縁を北上する事からこの山麓が中世の街道と考えられ、又これと分岐する宇留院内峠越えで小野寺氏の旧居城の稲庭へ至る間道の相方を押さえていた重要な地点を占めている |
<合川城攻防戦> 御返事城を攻略した最上軍は御返事より二里北側の合川城を攻め落とさんとして鮭延典膳を先手に進軍してきた。 城主小笠原能登守高恒は高松、宇留院内の住民共々八百余人で立て篭もった。多勢の最上軍が柵に目掛けて攻め寄せてきたが城内より八乙女河内、佐藤讃岐率いる二百人の兵が鉄砲を撃ち出し抵抗する。最上軍は城内から敵を引き出す作戦を取り兵を退いたところ城内より佐藤・八乙女が六十余騎で打って出たが取り囲まれ討たれてしまった。しかし、その後も合川勢の抵抗は激しく最上軍も二百余人が討たれた。 |
<鮭延典膳の奇襲> 中々攻め落とす事が出来ずにいる最上軍は鮭延典膳、坂上紀伊守など三千余人で悪所・難所もものともせず再度攻め寄せるが城内からの落石で二百余人が討たれ負傷者も数え切れないほどであった。 鮭延典膳は従属した土民の中から十四、五人を選び案内をさせ足軽に鉄砲三百丁を持たせて城の背後から雨霧の如く打ちかけた。城内の合川勢は防ぐことが叶わず城に火を掛けて鮭延典膳勢に戦いを挑むが多勢に無勢で全滅してしまった。 |
雲岩寺の裏手の相川農村公園から道が延びています。雲岩寺には合川城の標柱が立っています。 |
登り道を行くと途中に土塁のような高まりがあり、道はつづら折れになっており土塁の下を通っています。 |
土塁付近の平坦地。木で遮られていますが見晴らしは良いです。 |
櫓台跡?川連城・西馬音内城などと同様に登り道を行くと櫓台跡のような高台にぶつかります。小野寺氏の山城の特徴なのだろうか… |
櫓台頂部。 |
階段状に曲輪が山頂へと続いています。 |
相川農村公園から登ると現れる段曲輪と切岸。 |
主郭。藪が酷いです。 |
主郭南側の切岸。主郭の南側にも段曲輪が設けられています。南側から主郭を見上げる。 |
付近の御嶽神社からも城へ登ることが出来ます。 |
神社側の尾根筋を歩き城へ向かう事も出来ます。藪は酷いが比較的楽に進めます。 |
神社側から進んでも段曲輪と切岸が設けられています。 |
初めて登った日は降りる時に道に迷ってしまい斜面を降りてきましたが登り口からはだいぶ離れたところに出てしまいました。 山中に忘れ去られたかのような墓地がありました。 |
相川平和観音。碑文によると各家の繁栄と天正十五年五月十六日の合川落城時の戦死者の霊魂を弔うために建立されたとあります。 |
雲岩寺と合川城址標柱。 |