草井崎城
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所在地 | 秋田県湯沢市横堀字赤塚 |
様式 | 山城 |
築城年代 | |
落城・廃城 | 文禄二年 |
築城者 | |
主要城主 | 菅六郎内記 |
遺構 | 曲輪 堀切 空掘 |
おススメ度 |
<歴史・概要> 館は東から伸びる枝尾根に9条の堀切(幅3〜5m、深さ1〜3m)を設け、20×6mの主郭を中心に、西に腰郭を配置した単郭であるが南西端及び北西側に150,250u程度の平坦面をもっている。 付近には館の沢、堀の内などの地名が、また山麓には元亨二年の磨崖、嘉暦元年、同二年、応永七年も板碑が現存している。 「雪の出羽路」、「奥羽永慶軍記」の「巻十八 最上勢、仙北境を攻破の事」に草井崎と菅六郎内記、勘四郎、勘助などの名が見え、天正(または文禄)年間の最上侵攻で八口内城などと共に落城を伝える。 南方500mの山麓平地には館堀城があり居館であったことが想定でき、しかも有屋峠からの街道が前述の板碑の分布からこの山麓線を通ったとされ、対最上防衛線の一翼を担ったことが容易に想定できる。 |
<伝説:菊石・子袋石> 戦国の頃赤塚に菅六郎内記の館があった。今でもその館跡を館森とよんでおり、外濠のあったあたりを館塚とも呼んでいる。また院内地区に馬場がありそれが地名として残っている。最上義光との戦いに敗れ、菅六郎内記が戦死した場所は六郎川原と呼ばれている。その時のことであった。勝敗と館の運命をさとった城主は、十八歳になるひとり娘菊姫に家来をつけて館から逃してやった。ところが途中で悪心を起こした家来が、寺沢のあたりまで逃げ延びたところで菊姫を殺し、袋に入った所持金を奪おうとした。すると不思議にもたちまち袋の中の金は小石に変わり菊姫もまた石に変わってしまったという。村人は不幸な菊姫をあわれんでその石を菊石、袋の中の小石を子袋石とよんで、後の世に伝えている |
登城道入り口 |
登城道から山を登っていくと曲輪が見えてくる。 |
階段状に曲輪が配置されています。 |
南側の曲輪に祠がありました。 |
階段状の曲輪を登り主郭を目指すと尾根筋を断ち切る大堀切があります。ここから浅いが更に堀切が続きます。 |
連続する堀切。永い年月で埋まってしまっていると思うがこれで敵の侵入を防げるのか甚だ疑問です。最初の大堀切からはかなり見劣りします |
連続する堀切。 |
主郭前にある空掘。 深さは無いが結構長く掘られています。前出の連続堀切同様に防御効果には甚だ疑問が残りますが明らかに人の手によるものと思われます。 |
野外に露出した岩面などに仏像や種子を彫りつけた磨崖のうち県内最古のもの。 高さ6.6m、幅4.8mの安山岩の岩壁を整えて、阿弥陀三尊の種子(凡字)を刻んでいる。 |
磨崖説明版。 |
磨崖近くの墓地には奥羽永慶軍記の著者、戸部一カン斎正直の墓があります。一カンの漢字が読み取れます。 (カンの漢字が表示できませんでした) 戸部一カン斎は正保二年(一六四五)に生まれ、宝永四年(一七〇七)に六二歳でその生涯を閉じた。戸部は秋田雄勝・横堀村の医師で、奥羽永慶軍記はは十余年かかって奥羽各地を巡歴して古書を渉猟し、古人の話しをきいて書かれました。 |