湯沢城



所在地 秋田県湯沢市古館山
様式 山城
築城年代
落城・廃城 元和六年(1620年)
築城者 小野寺道定
主要城主 小野寺氏 三春氏 楯岡満茂 佐竹南家
遺構 曲輪・堀切・見張台・馬場跡
おススメ度

<歴史・概要>
標高221m、比高130mの主郭を中心とした連郭性平坦面及び鞍部の堀切で切断した二郭を中心とした連郭性平坦面をもち南北600m、東西400mの縄張りである。

<湯沢城築城>
鎌倉時代に雄勝郡に入部した小野寺経道の三男・道定により築城。領内の南部を抑える重要な拠点となった。

<小野寺稚道の討死>
沼館城に居を構えた十三代稚道は中宮亮と称しその武威は大森・刈和野・神宮寺・角館等の要害を次々と攻略し更に増田城主小笠原光冬や松岡城主柴田平九朗を討ち、有屋峠を越えて山形真室地方や由利十二党も従えた。その一方、非道の振る舞いも多くその事を諌めに来た老臣姉崎四郎左衛門を暗殺したり、湯沢城主三春信濃に対し城の明け渡しを要求し拒否されるとこれを討ち湯沢城を我が物とした。
この振る舞いに対し横手平城主大和田佐渡守と金沢八幡宮役氏金乗坊が反旗を翻した。しかし、事前に稚道の知るところとなり逆に平城を攻めたが味方の裏切りで湯沢城に敗走。反乱軍に同調する勢力が次々と結集し三万の大軍で湯沢城に攻め寄せた。乱戦の中で稚道は流れ矢に当り討ち死にしたとされる(天文十五年五月二十七日)。
嫡男・四郎丸はこの乱戦の中、稲庭に落ち延び小野〜八口内〜有屋峠を経て羽黒山に入ったとされる。三年後に輝道と名を改めて庄内、由利の兵五千を率いて大沢、八口内の両面から進撃し大和田佐渡守と金乗坊を討ち朝倉山に横手城を築いたとされる。

<最上氏との有屋峠を巡る戦い>
天正九年に真室城の鮭延秀綱は最上義光の攻撃を受け落城。その後は最上家の重臣として数々の合戦で活躍する事となる。対最上家への最前線拠点を失った小野寺家だったが難所の有屋峠が両軍の間にあった為に均衡は保たれていた。
天正十四年五月二十日に小野寺義道は旧領回復を目論み有屋峠入り口の八口内に諸将千騎、足軽五千の軍勢を集結させた。
このことは最上義光の知るところとなり諸将千五百騎、足軽一万を差し向けた。有屋峠での初戦は八柏大和守道為の策によって小野寺軍の大勝となった。
有屋峠で両軍が対峙していた時に最上領の庄内に本庄繁長が侵攻の報が最上義光に入る。義光は有屋峠合戦を子の義康に託し五百騎を率いて庄内に向かった。
当主不在でも最上軍の士気は高く、先日の大敗の弔い合戦を唱える者が多く小野寺軍は最上軍の反撃にあい結果的には両軍傷み分けの格好となった

<太閤検地と最上氏の侵攻>
天正十九年に太閤検地が実施された。その際に川連・増田地区にて太閤検地に抵抗する一揆が発生した。大森城にて検地の指揮を執っていた上杉景勝により一揆は鎮圧されるが雄勝郡・増田地方は太閤蔵入地に設定されてしまう。その蔵入地が後に最上家に与えられた事により最上軍が有屋峠を越えて八口内に侵攻してきた。八口内尾張守貞冬等の抵抗があったものの八口内城・御返事城・小野城・相川城などが次々と攻略される。最上軍は湯沢城の目前まで迫ったがこの時はここで軍を引いている。

<湯沢城落城>
本格的な雄勝郡侵攻に際して小野寺家の知将八柏大和守道為の存在が最上家にとっては脅威だった。そこで楯岡豊前守から八柏大和守に宛てた内通約束の偽書を八柏城近くの小野寺義道の弟吉田孫市の吉田城に誤送を装い届けた。内通を疑った義道は八柏大和守に横手城への登城を命じ、応じた八柏大和守を暗殺してしまう。
脅威を取り除いた最上軍は楯岡豊前守満茂を大将に再び有屋峠を越えて雄勝郡へと侵攻してきた。最上家の謀略により関口城主佐々木春道、西馬音内城主小野寺茂道、松岡越前守、深堀左馬等が最上家に付いた為、向かうところ敵無し状態で湯沢城を取り囲んだ。この時の湯沢城主は八柏大和守道為の叔父の孫七郎・孫作兄弟だった。小野寺姓を名乗ることを許されており最上家の謀略に乗ることも無く立て籠もっていた。しかし多勢に無勢で孫七郎・孫作兄弟の奮闘虚しく湯沢城は遂に落城する。

<楯岡満茂の居城から佐竹南家の入城>
その後湯沢城には楯岡満茂が居城し最上家の雄勝郡における重要拠点の機能を果すこととなる。
関が原合戦の後は秋田へ国替えとなった佐竹家の属城となり佐竹義種が城主となり、その後の元和六年に一国一城令により破却された。


湯沢城大手道(細小路)標柱

湯沢城大手道(細小路)

大手道を登ると本丸と二の丸を分断する堀切にたどり着きます。

堀切。本丸を中心とする城郭部を幅4m深さ7mで断ち切る。

湯沢城本丸を見上げる

湯沢城本丸 東西約80m南北約30mの規模。文禄四年(1595年)の最上氏侵攻の際城主小野寺孫七郎が一族家臣と討死した場所です。

湯沢城本丸標柱と説明版

本丸東南端に位置する五社壇跡。歴代城主が城地鎮護を祈願したと伝えられる。

五社壇内部。
五社壇は城内最高地に位置している。本丸の隅に位置し最高地と言う事は櫓台としても使用されていたのかもしれない。

湯沢城本丸標柱と説明版

二の丸跡標柱と説明版。広さ36m四方で城の東北端に位置し北の砦とも称される。
小野寺孫作討ち死の地と伝えられる。

二の丸跡。本丸を中心とする城郭部を幅4m深さ7mの堀切で分断し北方からの侵入を防ぐ
重要な役目を担う。

堀切跡標柱。埋まっており遺構は確認できませんでした。

馬場跡標柱と説明版

馬場跡は城の南部に位置し東西30m南北160mの広さ。馬術や軍事調練を行った施設。

西南の隅に土塁を築き弓・鉄砲の訓練も行われたそうです。

見張り台跡。城の西端に位置します。

見張り台跡からの眺望。眼下に湯沢市街を見渡せます。

城内の至る所で水場を見つけることができます。井戸などとして利用されたと思われます。

城内の道は竪堀で道幅を狭められている箇所もあります。

湯沢城跡は湯沢中央公園となっており遊歩道も整備されています。

佐竹南家門。昭和五十五年の道路工事に伴いこの地に移されました。


湯沢城案内板。

湯沢城の近くの内町には武家屋敷の面影が残っています。

清涼寺には佐竹南家墓所があります。

清涼寺に続く道に湯沢城正門跡の標柱が建っています。

湯沢城跡の中央公園で行われる「犬っ子まつり」。


祭りの起源は以下の通りである。慶長7年(1602)に,徳川家康の命により,佐竹氏が秋田に転封された。佐竹南家初代義里は永正12年(1515)に常陸の国(現在の茨城県)太田に生まれた。 城南に住んだことから南家と呼ばれた。三代義種の時代に,藩主佐竹義宣の秋田国替えと同時に湯沢城に入った。この頃は,戦国時代の名残があって,諸浪人がところどころに徒党を組んで一揆を起こした。中でも,雄勝郡の二条道・赤袴(現在の羽後町)の強盗は,「白討(はくとう)」と称して人々を震え上がらせていた。白討は,先ず討とうとする家に, 前日に札を立て「何日の何時,白討するから用心しろ」と,白昼堂々と襲撃を 告示した。その日時になると,強盗達は,先頭が炬火(たいまつ)をかかげ,その左右に炬火と槍を持つ者などが,警告した家を襲った。物を盗るよりも,人を殺すのが手柄であった.この頃,一本槍の甚十郎と言われる者がいた。何時も左側の 炬火持ちを務める大怪力の持主であった。色々な説があるが,一説によると,この甚十郎が白討の首領であったと言われている。湯沢の佐竹南家の義種か,その子供の義章の頃であったか,「領民のために許せぬ輩」と領主が激怒した。そして自らの手で一網打尽,見事に一味をからめ捕って退治した。人々は殿様に感謝した。そして二度とこのようなことがないように 番犬を飼った。やがて雪がしんしんと降り積もる正月,どこの家でも,何の憂いもなく正月を心ゆくまで楽しんだ。そして誰からともなく,満月の夜,家々の軒端に,雪で固めたお堂を作り,粳(うるち)米の粉で可愛い犬をお灯明とともに飾って,お祈り

するようになった。子供達は,唄を歌いながら,用心めぐりといって家々を 廻った。甘酒や料理などをもらって,カマクラの中で食べたりして,楽しく夕べの一時を過ごした。


(どんぴょん 田舎と祭りより抜粋)

七夕絵どうろうまつり

秋田藩佐竹南家に京都からおこし入れされた姫君が京への郷愁を五色の短冊に託し青竹に飾りつけたのが始まりとされた、約300年の歴史ある祭り。浮世絵や美人画が描かれた大小数百の絵どうろうが、夕やみの夜空を艶やかに彩ります。(湯沢市HPより)

大名行列は、毎年、愛宕神社の祭典に奉納される、秋田藩佐竹南家拾万石の格式を持つ行列です。行列は総勢六百人余で豪華絢爛たる往時をしのぶ大絵巻模様を呈し、正徳四年(西暦1714年)初めて町になった際に、愛宕神社祭典の余興として行ったのが始まりといわれています

(湯沢市HPより)

湯沢市役所に湯沢城のジオラマが展示されています。