八口内城



所在地 秋田県湯沢市秋の宮字役内
様式 山城
築城年代
落城・廃城 文禄二年(1593年)
築城者
主要城主 八口内尾張守貞冬
遺構 曲輪 帯郭 畝状竪堀
おススメ度  

<歴史・概要>
南の山地に連続する鞍部を小規模な空掘によって切断した山頂には2面の平坦面がある。北と西は自然の斜面を利用して,幅5m程度の腰郭を1〜3条、東南部には幅2m,5mの2条の腰郭とこの腰郭を切る形で深さ1m程度の9条の竪堀、及び南側鞍部の空堀が2つの竪堀に分かれ等間隔に斜面に落ち込む。主郭は30m*10mの平坦面をもち、現在は金峯山の小祠が祀られている。
「奥羽永慶軍記」「雪の出羽路」などに八口内尾張守貞冬の名が見え、天正十四年及び文禄二年の最上との戦いにおいてその機能が発揮される。旧街道の有屋峠は南西約4kmにあり、小野寺氏領の前線防衛の機能が考えられる。築城は不明であるが落城は文禄二年とされる。八口内城北方の大役内集落には内城、新屋敷、矢ノ場の地名があり、八口内氏の墓とされる墓石も現存する。

<小野寺氏の重要拠点>
八口内城は出羽の南北を結ぶ当時の主要道、有屋峠の近くにある。そのことから小野寺配下から最上の支配下に入った鮭延氏を攻めるべく天正十四年に行われた「有屋峠合戦」の際には小野寺軍は八口内に集結して峠から攻め入った。
また、太閤検地に協力する名目で仙北に侵入した最上軍との戦いで八口内城は最前線基地の役割を担ったと思われる。

<八口内尾張守貞冬の戦死>
最上軍が金山に集結してるとの報を受けて八口内尾張守貞冬は小野寺義道が名護屋城へ赴任中の為、横手城代に注進する。城代は大いに驚いて幕下・一門・郎党に役内に集結するように命令するも小野寺小五郎、奥山左衛門の僅かの手勢しか集まらなかった。奥山は味方の劣勢を思い夜陰に紛れて領地の山田に引き揚げてしまった。しかし、八口内尾張守は気落ちする事無く有屋峠の道を堀切、所々の大木を切り倒し逆茂木を引いて待ち構えた。最上勢が現れても臆する事無く従者三名と最上軍に切り込むが多勢に無勢で討ち取られてしまった。最上軍の先手の鮭延典膳は「天晴れな兵にこそあれと」感涙を流したといわれる

主郭へと続く尾根道。

切岸

曲輪

主郭。ここまで登ってきたが自然地形か人の手によるものか判然としない遺構の多い城でした。

主郭に祀られていた金峯山の小祠は倒壊していました。

帯郭

だいぶ埋まってしまっていますが畝状竪掘を見ることができます。

八口内城から役内集落を見下ろす。

八口内氏の居館があったと推測される内城地区。墓地には八口内尾張守貞冬と従者のものと伝えられる墓石があります。