稲庭城(早坂館・鶴ヶ城)
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所在地 | 湯沢市稲庭町字古館前平 |
様式 | 山城 |
築城年代 | 建久四年(1193年) |
落城・廃城 | 文禄五年(1596年)?慶長二年(1597年)? 慶長三年(1598年)? |
築城者 | 小野寺重道 |
主要城主 | 稲庭系小野寺氏 小野寺道勝 |
遺構 | 腰郭 曲輪 二の郭 主郭 堀切 |
おススメ度 |
<歴史・概要> 本丸は東西20m南北30mの郭を最高位に南北に展開し北端を空掘で遮断、北東尾根伝いに山道で新城・三梨・川連・八幡館の各支城に通じる。二の丸は東西25m南北60mの郭を最高位に西に下るつづら折山道に三〜四段の腰郭を二ヶ所設定する。最高位南端に雄平仙三郡を眺望できる。 |
<小野寺氏の稲庭入部> 小野寺氏は下野国(栃木県)都賀郡小野寺郷に居を構えた豪族あった。 道綱の代に源頼朝の平氏追討軍に加わり軍功を現した。 道綱より四代目の経道の代に大泉荘から雄勝郡稲庭に移り早坂に稲庭城を築き次男道直を西馬音内に三男道定を湯沢に置き仙北進出の基礎を築いた。文永十年(1273年)に卒したとされる。三代目道有の代には「雄勝・平鹿・仙北の庄主なり」と呼ばれるまで勢力を拡大する。 十一代目泰道の長禄二年(1458年)に南部氏の幕下属すが家臣佐藤忠継の智謀を持って寛正六年(1465年)から応仁二年(1468年)まで南部氏と戦い勝利し再び仙北に居城した。 小野寺家の系図は複数ありそれぞれが異なっており断定は難しいが小野寺正系図の十一代泰道か十二代景道の頃に居城を沼館に移したと思われる。しかし、その後も小野寺家の重要な支城として機能したと思われる。 |
<稲庭城落城> 天正十八(1590年)年の太閤検地の際に増田、川連で検地に抵抗する一揆が発生した。そのため小野寺家は雄勝郡と増田地方を没収されて太閤蔵入地(直轄地)にされてしまう。その代官に任命されたのが最上義光だった。 最上軍は雄勝郡へ進攻し湯沢城など諸城を攻略した。 その後小野寺一門が居城する稲庭、三梨、川連城の攻略にも着手する。 最上軍は清水大蔵大輔義之を大将に三千余人で押し寄せてきた。 城主小野寺道勝等の奮戦もむなしく稲庭城は落城し道勝は百余人の負傷兵と共に落ち延びて行った。 |
大手道と推定される道。つづら折れになっています。 駐車場付近に二の丸へ続くスロープカーや整備された遊歩道もあります。 |
大手道は腰郭付近へと続いています。 |
腰郭跡。寄せ手を防いだり見張りをした場所。 |
腰郭跡から階段状に郭が配置されています。 |
登城道は二の郭まで延びているが公園整備などにより改変を受けたと思われます。 |
模擬天守(今昔館)のある二の郭前に階段状に郭が配置されています。 |
段曲輪にはシャガが群生していました。シャガの葉は滑りやすく更に抜けやすいため斜面に植えて敵が登ってくるのをを防いだそうです。 |
二の郭に立つ模擬天守(今昔館)。稲川地区の産業などを紹介した資料館になっています。 模擬天守建設や公園化の際に遺構の破壊や改変が行われたのは誠に残念です。 城=天守のステレオタイプな見方で貴重な遺構を破壊し存在した痕跡もないモノを建てた残念な典型例です。(あくまでも個人意見です) 詳しくはここをクリック |
宇留院内方面を望む。藤倉を通り宇留院内峠を越え高松を通り須川へ至ります。稲庭城は交通の要所に位置していることが分かります。 |
模擬天守前の説明版。小野寺氏の稲庭入部から滅亡までを間単に記しています。 |
二の郭の櫓台跡。夫婦松が植えられています。落城時に城主小野寺道勝が奥方の身代わりに植えたと伝えられています。 |
櫓台から二の郭を見下ろす |
二の郭と主郭に通じる道は三重堀切で切断されています。しかし林道建設時に埋められたり破壊されたりして状態は良くありません。 |
三重堀切跡。舗装道路が土橋状に掛けられ埋められてしまっています。 |
堀切跡。 |
主郭入り口。 |
狭い道を進み主郭を目指します。 |
道は途中堀切で切断されています。 |
削平が甘いが平坦面が見えます。 |
一段高くなっているのが主郭。 |
稲庭城主郭跡。ここへと至る道は狭くて険しい。疲れました(汗) |
祠と説明版。 |
説明版 |