沼館城



所在地 秋田県横手市雄物川町沼館
様式 平城
築城年代 13世紀後半?
落城・廃城 天正十八年(1590年)
築城者 小野寺道有?
主要城主 落合氏 小野寺泰道 小野寺植道 大築地織部
遺構 曲輪 土塁 堀 大手門跡
おススメ度

<歴史・概要>
沼館城の規模は約7ヘクタールで本丸は蔵光院、二の丸は雄物川北小学校となり蔵光院南・東端の土塁の高さは6〜10m、幅6mがある。
蔵光院境内には井戸跡・文庫跡・庭園跡が推定されている。雄物川北小学校の西・北端にも低い土塁が残っている。

<沼の柵の推定地>
種々の伝説はあるが康平五年に終わる前九年の役後の清原氏の出羽山北における本拠地であった。
しかし、永保三年(1083年)に始る後三年の役の際、源義家・清原清衡軍に攻められた清原家衡は叔父の武衡の進言を受けて金沢の柵に本拠を移した。

<小野寺氏の平鹿郡進出の拠点>
十三世紀後半に後三年の役後興廃していた沼の柵を修復し重臣落合氏を配置したとされる。
その後戦国期に入り稲庭城を本拠とし勢力を拡大した小野寺氏は植道の代に平鹿郡進出に当たり本拠地を沼館城に移した。
その後輝道の代に横手城に本拠地を移すまで機能したと思われる。

<阿気野合戦>
天正十五年(1587年)に小野寺義道と不和になった角館城主戸沢盛安は小野寺氏に臣従していた本堂、六郷氏らを抱きこみ沼館城を攻めるべく3000余騎を従えて角間川布晒に至った。
沼館城代大築地織部は小清水蔵人に700名の兵を与えて阿気野に先発させた。
両軍入り乱れての乱戦となるが小野寺方小清水が討たれ沼館勢は敗走する。
戸沢盛安は沼館城を落とさんとして追撃するが小野寺方西野氏が大軍を率いて救援に来ると戸沢盛安は角館に帰陣した。
この一戦後戸沢盛安は「鬼九郎」の異名をとった。

蔵光院山門と沼の柵跡碑。沼館城は沼の柵本城跡を改修し築かれたとされています。

東側の土塁。高さは6〜10m、幅6mの規模。道路はかつての堀跡と思われます。

東側土塁を本丸内から。

大手門と推定されるサイカチ門。

二の丸と推定される雄物川北小学校。

本丸西側には土塁と空堀があります。

本丸西側の土塁と空堀を別角度から。

二の丸にも土塁と堀が廻らされています。

二の丸土塁と空堀を別角度から。

北側の低い土塁。

写真左の二の丸(雄物川北小学校)と曲輪(神社)を堀(道路)が分断しているように見えるが神社が曲輪跡かは不明。
沼の柵と言われるのは水城だったからかも・・・

沼館城址説明板。訪城の際には一読ください。

沼の柵本城址説明板。こちらも一読後の見学をお勧めします。