八柏城



所在地 秋田県横手市大雄字八柏
様式 平城
築城年代
落城・廃城
築城者 落合十郎
主要城主 落合氏 八柏氏 八柏大和守道為
遺構
おススメ度    

<歴史・概要>
「雪の出羽路」には「奥山半左衛門といふ家あり、此やしきこそいにしへ八柏大和守道為が古舘の跡なれ」「方七八十間もありしが、今は三十間に二十間となれり」とある。

<八柏氏>
奥羽永慶軍記によれば小野寺j家譜代の家臣であった落合氏の末葉、落合十郎が八柏を領し八柏大和守道友と名乗ったとされ、天文二十一年横手佐渡守光盛と役氏金乗坊が小野寺宗家に背き湯沢城を攻めた時主君を守って新藤原で討ち死にしたと伝えられる。後年その弟孫七郎が小野寺姓を賜り湯沢城主を命ぜられた。
また、天正十二年(1584年)に小野寺輝道が赤松播磨に「吉田藤根の内」を与えた宛行状の写しが残っている。赤松氏家伝によれば下吉田の北に位置する八柏を知行した領主であり、輝道から赤松の苗字を改めて八柏を名乗ることを命ぜられた八柏大和秀繁が家老として家中に重きを成した。ところが秀繁が最上氏との戦いで不慮の死を遂げたため子の与五郎秀利が田中を名乗ることなり、田中宮内少輔称したが後に赤松に戻り赤松播磨と称したという。その後赤松氏は同じく小野寺氏重臣であった松岡家に吸収され家は断絶する。

<知将・八柏大和守道為>
小野寺家臣団随一の知将と称された。
最上家との有屋峠合戦では知謀を用いて戦死者千余人の大打撃を与えたり軍律「掟三十一カ条」を定めるなどした。
道為が健在なうちは小野寺領征服は困難と見た最上義光は楯岡満茂に命じて道為が最上方に寝返る内容の偽の密書を小野寺義道の弟の居城吉田城へ誤送を装って届けさせた。
この偽の密書を信じた小野寺義道は道為に横手城への登城を命じ、何も知らない道為は途中の中の橋付近で主命を帯びた樫内淡路と黒沢甚兵衛が待ち伏せて暗殺されてしまう。

道為亡き後の小野寺家は最上家の更なる侵略に晒される事となる。
小野寺家の凋落の一端となった事件である。

館跡は神社や宅地となり遺構は消滅してしまいました。