神宮舘(八沢木新城舘)



所在地 秋田県横手市大森町八沢木字滝の沢
様式 山城
築城年代
落城・廃城
築城者
主要城主 大友氏
遺構 曲輪 帯郭 腰郭 堀切 横堀 畝状竪堀 土塁 馬場
おススメ度

<歴史・概要>
「雪の出羽路」で「神宮沢てふ処に古館あり、そは大友氏上祖藤原吉親の古柵にして、四方に堀めぐり三処に台築て馬場跡あり」と書き留められている通り、4面の連郭性削平地が認められ東の主郭(標高159m比高80m)は東西約20m南北約60mであり、これよりも西の郭が約10m弱高く面積も100u程広い。主郭を巡る空堀(幅4m弱)は竪堀を伴うが段地状に見える位著しく埋積している。これと西の郭の間に堀切を設けている。馬場は東南約400mの山裾(現況、水田)と伝えられ付近の滝の沢川に架かる橋を馬場の橋と呼ぶ。その北東約200m先に殿通り沢があり、また神宮沢に寺屋敷があったと言われ平安鏡が出土。

<八沢木大友氏>
保呂羽山波宇志別神社は社伝によれば、創建は天平宝字元年(757)8月15日で神主・大友家の先祖・大友右衛門太郎吉親が大和国金峯山より安閑天皇(蔵王権現)を勧請したことによるといいます。大友家に伝わる縁起によれば、創建以来大伴氏の末裔と伝えられる大友家が別当を務めてきましたが江戸時代初期、大友家当主が幼いため、一時的に守屋家と両別当となった。
しかし、守屋家から別当が出ていた1853年(嘉永6年)に出火があり、その責任を問われ以後現在まで大友家が宮司を務めているという。
大友氏は戦国期には八沢木・上溝・猿田・小友を支配する在地領主で小野寺氏の被官の立場からこの舘を拠点に兵を動かしたと思われます。

葛ヶ沢集落側から直登しましたところ木の切り出し様に設けられたと思われる作業道に辿り着きました。舘跡への影響を心配しましたが探索の結果問題無さそうでした。

しかし、帰りに作業道がどこへ通じているか分からずに作業道から斜面に降りた際に足元が崩れ三回転しながら転落し顔面にこぶし大の石が転がり落ちてきて激突。両鼻孔から出血と左脚を負傷し愛用の帽子を紛失。何とか自力で下山し骨折は免れたものの2週間以上経過した現在もまだ痛みが残っている状態です。2015年冬の山城探索はこれにて幕引きとなってしましました(涙)


探索の際は作業道から入り作業道から降りることをお勧めします。

北郭と西郭を分断する堀切。

北郭。

堀切を越えて西郭へ移動しました。斜面が階段状に削られています。

西郭の腰郭。

西郭。

写真では分かり難いですが土塁が設けられています。土塁の下には空堀があり堀を掘った際の土を?き揚げて作られたと思われます。

空堀。

空堀を越えた所にも平坦面が広がっています。探索をしましたが特に遺構は認められず。

空堀を挟んで西郭を見ています。

西郭から主郭を目指して進みました。藪が激しく難儀しましたが西郭と主郭を分断する堀切に到達しました。

主郭の裾に降りました。「秋田県中世城館報告書」では空堀が取り巻いていると記載されていますが帯郭に見えます。

主郭下の帯郭。

帯郭から作業道が見えます。

帯郭では殆ど埋まってしまっていますが畝状竪堀を見ることができます。

神宮舘主郭。祠と石碑が建てられています。


祠にはスズメバチの巣があります。探索の際はご注意ください。


主郭を見上げる。

馬場跡と思われる水田。左手の山が神宮舘。

馬場の橋。

館跡の近くにある仁王門。

保呂羽山波宇志別神社守護の神門として建立。左右二体の仁王像の大彫刻が安置されている。

現在の建物は宝永三年(1790年)に建て替えたものである。※現地説明版より