鍋倉城



所在地 横手市平鹿町下鍋倉字城戸
様式 平城
築城年代
落城・廃城
築城者 小野寺道政
主要城主 鍋倉氏
遺構
おススメ度    

<歴史・概要>
鍋倉城は南部倉とも記され「柞山峯之嵐」に「鍋倉故城は鍋倉相模の邑城なり、今城跡にに土民住居し、堀の跡は苗代なり」とある。「六郡郡邑記」には「城形は居屋敷成る」とあり、「雪の出羽路」には「館という村ありしが今はなし、先に城形とありし処(中略)木戸という処村の西北に在り、むかしの柵戸の跡也」とある。ここが中世に小野寺氏の一族と伝えられる鍋倉氏の拠った鍋倉館である。前記のように集落に包摂され、現在はほとんど遺構を見ることができず、わずかに地名や堀跡で往時を偲ぶのみである。堀跡は城戸部落と寺村の東側の一部に遺存しており、切絵図によれば幅6〜10mの水濠が鍋倉部落全体を取り囲んでいたようだ。この用水は南方の雨沼、菖蒲沼に水源を持つ小勝田川から引いていた。正保四年(1647年)標題欠検地帳(平鹿町蔵)によればたてやしきの地名で二町九歩の面積があり、関根小屋、みやこ町、ほり切、堂ノ前の地名も記されており、村高九八〇石の中、本田分が八〇五石を占め、田位の六割強が上田、中田であり、早くから開発が進んだかなり肥沃な土地を有していることが分かる。また、明和八年(1772年)「下鍋倉村打抜起返御検地帳」では「かこへの内」として城戸、堀切、下六ツ段、上六ツ段、関根小屋の各地を記している。

<鍋倉氏>
小野寺氏改易後にか角間川に移住した鍋倉家に伝わる系図によると小野寺家十二代重道の二男、道政が祖とされている。
奥羽永慶軍記などに記されている鍋倉を名乗る武士は次のとおりである。

増田一揆(天正十八年 1590年) 鍋倉四郎(管窺武鑑)
原田大膳乗取岩崎事 鍋倉金蔵・鍋倉図書 (奥羽永慶軍記)
小野寺一門処々城返攻事 鍋倉相模 (奥羽永慶軍記)
最上与仙北於境目合戦事(有屋峠合戦) 鍋倉喜蔵 (奥羽永慶軍記)
慶長五年大森合戦事 鍋倉喜蔵 (奥羽永慶軍記)
由利、仙北境合戦事(大沢山合戦) 鍋倉左近 (奥羽永慶軍記)

城跡は神社・宅地・耕作地となり遺構は消滅しています。

首塚跡。

仙北一揆の際に鍋倉四郎率いる一揆勢の首が埋められていると伝えられます。

また、平鹿町史によると首塚のある場所は最上義光が鍋倉城を攻め取った後に代官を置いた。

しかし鍋倉の百姓が一揆を起こしこれを殺害したがその後成敗され二百数十人の首が埋められているとも伝えられています。

鍋倉城の近くにある丘。田んぼの中にポツンとある。物見台か何かに利用されていたのかも知れません。