横手城(朝倉城)



所在地 秋田県横手市城山町
様式 山城
築城年代 正安二年(1300年)? 天正五年(1577年)?
落城・廃城 慶応四年(1868年)
築城者 小野寺道有? 小野寺輝道?
主要城主 小野寺氏・鮭登秀綱・伊達盛重・戸村氏
遺構 曲輪・腰郭・武者溜・犬走
おススメ度

<歴史・概要>
横手城は横手盆地の山央西端部、真昼山地から西に延びた尾根の端に占地する。
城の南および西には横手川があり、これらの自然地形を巧みに利用した天然の要害である。本丸及び二の丸からは肥沃で広大な横手盆地が一望できる。

<横手城築城>
築城は諸説あり「小野寺正系図」によれば小野寺輝道の頃。また「和賀小野寺系図」では沼館城主小野寺忠道の子道有が正安二年(1300年)に築城したといい、鎌倉時代から城があったともいう。
また「応仁武鑑」では応仁元年(1468年)頃に稲庭城の家老横手三郎兵衛道前なるものが居城したといい、松岡氏所伝「小野寺氏系図」では輝道が天正五年(1577年)より横手に居城したという

<小野寺氏時代>
天文二十一年(1552年)横手佐渡と金沢金乗坊が謀り湯沢城にて小野寺稚道を討つ(平城の乱)。
その三年後弘治元年(1555年)稚道の遺児、四郎丸(輝道)がその仇を討ち横手城を築いたとされる。
輝道の子義道の代になり近隣の諸勢力との合戦が絶えなかった。天正十年には雄物川町大沢において由利十二党と同十四年には有屋峠にて最上義光と同十五年に角館城主戸沢盛安と横手市阿気にてそれぞれ合戦している。
天正十八年の太閤検地では由利・仙北地方を大谷吉継と上杉景勝が担当し両者は大森城に入りその後大谷氏は横手城に駐屯した。検地中に小野寺領の増田・川連・浅舞で一揆が発生した。検地後小野寺氏は一揆の責任などから仙北三郡の支配から平鹿・雄勝の一部の三万石に転落した。その後雄勝郡の大部分も山形の最上義光に与えられた。天正十九年(1591年)から慶長五年(1600年)までは小野寺氏の旧地奪回策と最上氏の雄勝支配とが相容れず県南は争乱に明け暮れる。
徳川家康の軍令に従い会津の上杉討伐に参陣した小野寺氏だったが会津を目指して進軍していた徳川軍が上方で挙兵した石田三成に対する為に反転し西上した。
その後上杉家臣直江兼続が山形城を目指して最上領に侵攻した。この状況に接し小野寺義道は最上領となっていた湯沢城を包囲した。しかし関が原合戦で徳川勢(東軍)が勝利すると直江軍は米沢に撤退し西軍と見なされた小野寺氏は最上・秋田・六郷・由利諸氏の攻撃を受けることとなる。
慶長六年(1601年)一月に小野寺義道は石見国津和野へ配流となり横手城は最上家臣鮭登秀綱に明け渡された。

<佐竹氏時代>
佐竹氏の秋田入部に伴い横手城は久保田城(佐竹本城)の支城となり城代には伊達盛重が置かれた。
慶長八年には副城代に須田盛秀が入り元和元年(1615年)にはその配下に茂木監物が吉田城移った。寛文十二年(1672年)には城代に戸村義連が入り城代戸村氏は明治まで続く。
慶応四年(1868年)戊辰戦争の際に久保田藩は奥羽越列藩同盟を脱退し新政府側についた為に横手城は仙台・庄内藩の攻撃を受ける。戸村大学を中心に100名足らずで籠城し4000人余りの連合軍と対峙するも落城し戸村大学は自害しようとしたが家臣に止められて落ち延びた。

<伝説:大力妹尾兼忠>
昔、横手の武士、妹尾五郎兵衛兼忠が、用事があってまだ人気のない早朝に家を出た。蛇の崎橋(じゃのさきばし)を歩いていると、向こうから赤ん坊を抱いた女性が歩いてきて、兼忠にしばらく赤ん坊を抱いていてほしいと頼んできた。他に誰もいなかったため、兼忠はやむを得ず赤ん坊を預かった。
女性が去った後、兼忠は次第に赤ん坊が重くなってくるのに気付いた。さらに赤ん坊が成人のような目つきをし、兼忠の喉元をにらむため、危険を感じた兼忠は、小柄(小さな刀)を抜いて口にくわえた。赤ん坊の重みはいよいよ増したが耐えたついに耐えきれなくなり思わず念仏を唱えた。小半時(1時間)ほどしてようやく女性が蛇の崎橋に戻ってきて赤ん坊を受け取り、お礼にお金を渡そうとしたため兼忠が固辞すると、女性は「自分は土地の氏神で、いま氏子のひとりが難産で苦しんでいたので助けを求められた。あなたに預けた子はまだ産まれていない子で、だんだん重くなったのは母親が危険なときだった。あなたの念仏のおかげで親子ともども助かりました。子々孫々にわたり、力をあげます」と言って手ぬぐいを差し出した。兼忠は受け取って、用事のために急いで橋を去った。
翌朝、兼忠は顔を洗おうとして、前日もらった手ぬぐいを思い出し、それで顔を洗った。手ぬぐいを絞ったところ簡単に切れてしまったので、兼忠は「力をあげます」という昨日の女性の言葉の意味を理解した。手ぬぐいが弱いのではなく、兼忠の力が強くなっていたのだった。
<兼忠の怪力>
横手城内で兼忠の怪力が評判になったころ、植木に使う大木を運搬中に蛇の崎橋で欄干に引っかかってどちらにも動けなくなる出来事があった。兼忠がちょうど通りかかり、大木を移動させようと必死に作業する人夫に、通行の邪魔であると声をかけた。人夫はつい、良くない言葉で返事をしたため、武士の兼忠はその無礼に怒り、大木を持ち上げるなり橋の下の横手川の川原に投げ落としてしまった。この大木を引き上げるのに、50人の人夫が3日かかったという。
元和8年(1622年)の大眼宗一揆のとき、兼忠は2間余りの角材を手に持って蛇の崎橋の上に立ち、一揆の信者たちをにらみつけ、追いのけて功名をあげたとも、また、兼忠の下駄は、1斗余り入る味噌桶の台ほどの大きさだったとも伝わる。
ある雨の日、兼忠が足駄を履いて傘を右手に持ち、左の手の平に大石を乗せて、急な七曲がりの坂を苦もなく登って横手城へ登城する姿が、人々を驚かせたという。
<兼忠、大力失せる>
ある日、兼忠が横手川の関門の大扉をもってみなぎり落ちてくる水をささえ、押し戻してその力を誇示していた。このありさまを川岸で見ていた1人の老翁が笑いながら「上流をささえるより、下流を押し戻してみよ」と言ったので、兼忠「戻すに何の難しいことがあろうか」と扉を開いて下流に押し戻そうとしたが満水に1町ほど流され、これではどうかと思ったとき、大水が渦を巻いたので岸へかけ上がった。老翁すでにそこにはおらず、それ以来、兼忠の力は弱まったという。
(ウィキペディアより)

横手城登城口

登城道。江戸時代の大手道だそうです。

大手道を登りきると大手門跡の出ます。

武者溜跡。武者の屯集・勢揃い時に使われたそうです。

武者溜跡から横手市街が一望できます。

模擬天守。二の丸に建てられています。

二の郭の下に帯郭が配置されています。二の郭下部が石積で補強されていますが遺構かは不明

犬走り跡。垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い平地部分をいう。

左が犬走りのある土塁。右は本丸。土塁の下部に石積みが見えるが佐竹氏時代の遺構でしょうか?。

本丸を目指すにはクランクしている坂を登ります。

本丸跡。秋田神社となっています。

秋田神社には戊辰戦争時の弾痕が残っています。神社は焼け残った大手門の木材を利用して建てられたそうです。

本丸に立つ戊辰戦争慰霊碑。横手城兵21名が戦死しました。

妹尾兼忠碑。

本丸の下には帯郭が廻っています。

腰郭

牛沼。自然の沼だが内堀の役目を担っている

八柏大和守受難の地碑(中の橋)

小野寺家中の智謀の将と聞こえた八柏大和守道為が最上義光の策略に掛かった小野寺義道により暗殺されたと伝えられる場所。

八柏大和守が最上家に内通している内容の偽りの書状を誤送を装い義道の弟の吉田孫市の吉田城に届けさせた。

信じ込んだ義道に横手登城を命じられその途中の中の橋で暗殺されました。

本多上野介正純父子の墓

宇都宮城釣天井事件を受けて横手へ配流、当地で死去した本多正純の墓碑。

江戸時代の元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が宇都宮城に釣天井を仕掛けて2代将軍徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純は流罪となった事件です。

実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在しなかったとされています。