吉田城



所在地 秋田県横手市平鹿町上吉田字吉田
様式 平城
築城年代
落城・廃城 元和元年(1615年)
築城者
主要城主 小野寺輝道 小野寺陳道 茂木監物
遺構 曲輪 土塁 虎口 空堀 櫓台
おススメ度

<歴史・概要>
東西100m南北80mの略方形に土塁が回りその四隅に突出部を持つ。特に南西隅は規模が大きく大手と伝えられ北西隅は花見崎と称され搦め手である。土塁は南側は墓地となり一部破壊されたが他の三方は状態が良好で上幅3〜5m、基底幅6〜10m、高さ2〜3mを計る。この外側を幅6〜10mの堀が巡る。付近に館尻、新城、古城、西小路の字名が残り俗称、東小路、馬場、寺屋敷、鍛冶屋敷の地名が伝えられる。昭和55年に県指定史跡指定。

<小野寺輝道の隠居城>
小野寺十六代輝道は家督を邁志義道に譲り吉田城に隠居した。
天正十八年(1590年)、奥羽仕置の検地反対一揆が発生し上杉の兵により程なく鎮圧された。その後処理のため上杉家臣色部長真は大森城に駐在し蔵入地(豊臣直轄地)年貢の収納事務を命ぜられる。その際上杉家重臣直江兼続は小野寺側の収納責任者を大森五郎(小野寺康道)と「横手隠居」のふたりとしている。
城主小野寺陳道は輝道の末子で「奥羽永慶軍記」では天正十四年の有屋峠合戦、同十六年の峰ノ山合戦では吉田城主小野寺孫市陳道、慶長五年(1600年)の大森・吉田合戦では孫一郎陳道となっている。

<仙北吉田合戦>
慶長出羽合戦に際しては西軍の上杉家と同じく東軍方の最上家を攻めた小野寺家だったが関ヶ原で西軍が敗北すると攻守が入れ替わる。
最上・秋田・由利十二頭の連合軍二万が大森城攻撃の際に三千余人で吉田城攻略へ向かうが小野寺方は境(横手市大雄八柏付近か?)まで出陣しこれを退ける。
旧平鹿町史によると大森町方面から沼館街道を通って吉田城へ攻めてきた連合軍を伍口で迎撃したと
の伝承を記している。

<小野寺家改易後の城主陳道のゆくえ>
慶長六年小野寺氏は改易の憂き目に会う。吉田城主小野寺陳道は「松岡氏所伝小野寺系図」によると吉田城退散後浪々の身となり南部利直を頼み居住し金兵衛と名乗ったと伝える。
また「出羽諸城の研究」によれば会津芦名氏の一族と共に八戸根城の八戸氏に寄遇し子孫は民間に降り土豪となったといわれる。

吉田城跡説明板。秋田県指定史跡になっています。

東側土塁が良好に残っています。南側は西法寺に接しており寺には小野寺輝道の供養碑があります。
土塁の隅には張り出している部分があり櫓が組まれていたと思われます。

東側土塁隅櫓台から。土塁と空堀を見ることができます。

北東の隅櫓台。

北側の搦め手にあたる虎口。花見崎と称されています。

北側土塁

曲輪。100×80mの規模。