名ン小館



所在地 横手市大森町八沢木字繋
様式 山城
築城年代
落城・廃城
築城者
主要城主
遺構 曲輪 堀切 土塁
おススメ度

<歴史・概要>
平鹿・仙北・由利3郡の郡境に近い要衝で北約400m先に波宇志別神社がある。主郭は南北43m東西28mで東に若干の段差を付けた腰郭が連接する。主郭南には10面の階段状の曲輪があり堀切は南に2本北に3本設けられている。「雪の出羽路」「秋田沿革史大成」では二戸南部氏居城とのみ伝え定かではない。戸姓南部諸氏の系統とすれば寛正六年〜応仁二年頃宗家三戸氏の南部時政が小野寺泰道に敗れ100年近く支配した仙北地方を追われたときにこの館の居城者も入れ替わった筈である。戦国末期は大友氏の宮侍が居城しただろう。

館の東側斜面を直登しました。段差が確認できますが狭いです。

東側の尾根に堀切のようなものがありますがかなり浅いです。

主郭

主郭北側の堀切。見ごたえがあります。

前出の堀切を越えて正面に主郭を見ています。

主郭北側の二本目の掘切。

主郭北側の三本目の堀切。主郭から離れるに連れて規模が小さくなっています。

主郭南側尾根を分断する掘切。

土塁のようなものがあります。

堀切で区画された曲輪。

主郭南側尾根の掘切。

南側には階段状に曲輪が配置されています。

階段状の曲輪。

階段状の曲輪。

階段状の曲輪。

三角形状の曲輪もありました。


館の近くには百人塚があります。嘉永六年(1853年)正月三日の晩に保呂羽山波宇志別神社神主守屋勝貞宅に保呂羽山山開きの参詣人数百人が止宿したが夜半火災が起こり雪囲いの為百余人が焼死した。その罪により守屋家は家禄没収神主罷免のうえ国境岩館に追放となりました。その時の焼死体を埋葬した塚だそうです。

近くで農作業をしていた老夫婦にコーヒーをご馳走になり館や百人塚のお話を聞きました。館跡も地元では知られた場所だそうです。


波宇志別神社神楽殿。奈良時代中頃の天平宝宇元年(757年)の創立と伝えられ延喜神明帳に記載される県内屈指の古社である。建立年代は室町時代末ごろと考えられる。