馬鞍城



所在地 秋田県横手市平鹿町醍醐字城廻
様式 山城
築城年代 貞治年間
落城・廃城 文禄五年(1596年)
築城者 小野寺道当
主要城主 小野寺氏 関口能登守
遺構 曲輪 土塁 堀切 虎口
おススメ度  

<歴史・概要>
東西に長い尾根を削って築かれ中間で上幅10m基部4m深さ5mの空掘によって二分されている。西方の郭は東西80m南北40mの略方形を呈し幅5mの腰郭が一段巡る。東方の郭は東西40m、南北40mの方形を呈し西端中央部で長さ20mの突出部を持つ。東縁と南縁は幅6m高さ2mの土塁で囲まれ本丸と称されている。付近には防山・関ごもり・城廻などの地名が残る。
南北朝〜室町期の城主は小野寺能登守道当で小野寺氏平鹿郡進出の最初の拠点の1つであったとされる。天正〜慶長は関口(佐々木)能登守で湯沢関口城から移ったともいう。文禄五年一時最上氏が支配する。館内から明銭が出土した。

<七味の調菜 黒甜瑣語 四編>
むかし飛騨国大山城の陣中にて人肉を調理し酒宴を催した事があるが籠城中の仙北馬鞍城中では糧秣が底を突いた。
城将能登守信景が云うには「奥羽の山中に住むもの五穀の食物の援(たすけ)のみならず平時は猪、鹿も兼味(一緒に食べる)しておろう。非常時なれば牛馬人肉を食そうではないか」と呼びかけた。
累々と山を成している腐乱の肉を取り集め老いも幼きも食し十日あまり持ちこたえた。
兵士はひとたび陣中に入れば飢えては人肉を食らい渇いては血を啜るは戦場では習慣であり当たり前の事であった。

馬鞍城標柱

虎口

大規模な土塁で曲輪が仕切られています。

堀切

主郭。大土塁で囲われています。

腰郭

曲輪

曲輪