大森城



所在地 横手市大森町字高口下水戸堤
様式 山城
築城年代 文明年間(1469〜1487年)
落城・廃城 元和六年(1620年)
築城者 小野寺道高
主要城主 小野寺道高 小野寺康道
遺構 本丸 二の丸 曲輪
おススメ度  

<歴史・概要>
城郭の規模が大きく輪郭式に近く本丸(標高120m比高80m東西130m南北75m)を中心に帯郭(幅15m)二の丸(東西75m南北90m)が配置されている。
文明年間小野寺道高が築城し慶長6年7の小野寺氏改易により最後の城主康道も津和野藩主坂崎氏に預けられ元和6年ごろに廃城と伝えられる。

<大森城築城>
文明年間に小野寺道高が築城し始めは岩淵城と呼ばれた。その後1580年頃に小野寺康道が居城し大森城と号した。

<太閤検地の本拠地>
天正十八年の太閤検地の際には上杉景勝が入城し仙北三郡(現在の平鹿・雄勝・仙北地方)の検地を行った。

<大森合戦>
慶長三年(1598年)豊臣秀吉が没し徳川家康が第一の実力者になるとそれに反発した会津の上杉景勝討伐の為に家康は軍勢を会津へ進めます。小野寺家ほか出羽の諸将は徳川方に付き山形の最上義光と行動を共にします。しかし、石田三成が挙兵すると家康は栃木県小山で反転し西進を開始、岐阜県関ヶ原で石田三成率いる西軍を打ち負かし天下統一を果します(関ヶ原の戦い)
この時徳川家康が反転西進したことにより上杉家臣の米沢城主直江兼続が山形の最上領に侵攻。
最上家と雄勝郡の領有を巡り激しく対立していた小野寺義道は最上方の湯沢城を包囲し出羽で唯一西軍方に付きます。
しかし、関ヶ原で西軍敗北の報が届くと攻守が入れ替わり直江兼続は米沢へ撤退。小野寺領には東軍方出羽の諸将が攻め込んできます。
大森城を最上・由利十二頭・秋田連合軍一万余人が包囲。
城主小野寺康道は800人で籠城し応戦します。
城は連合軍の攻撃に二ヶ月も耐え遂に落城することも無く和議により開城と相成りました。
その後城主康道は兄の義道と共に津和野藩主坂崎家へ預かりの身となり寛永十八年に流刑地で没したと伝えられます。

大森城説明版。訪城前に一読をお勧めします。

本丸・二の丸分岐点。まずは二の丸方面へ。

帯郭(外郭)

大森城は帯郭が多用されています。

二の丸

二の丸下にも曲輪が確認出来ます。

二の丸付近の曲輪。

本丸。かつては周囲に土塁を廻らしていたそうです。
ベンチが設置されている箇所が高くなっておりかつての土塁跡でしょうか?

本丸には大森神社が建っています。

本丸西側。大森城へ攻め込んだ最上・由利・秋田連合軍に対し籠城していた女たち二・三百人が石つぶてで応戦したそうです。