浅舞城



所在地 横手市平鹿町浅舞字館廻
様式 平城
築城年代
落城・廃城 元和八年(1622年)
築城者
主要城主 浅舞刑部 小野寺光道 菅蔵人秀磐
遺構
おススメ度  

<歴史・概要>
南方大宮川の豊富な水が注ぎ込む琵琶沼を初め多くの湧き水が散在し、濠の水はこれを用い水城的性格を有した。東に五味川、西に八幡川が北流する。主郭は一部畑地として残り田面との比高約1.5mである。東西120m・南北120mの方形を呈し、堀跡も認められる。北方は堀ノ内、新堀の地名で残り東方は宿館と呼ばれ家老寺館氏が住した。環濠南方から井戸枠、主郭より取っ手付銅壷が出土した。太閤検地で一揆が伝えられ、太閤蔵入れ地に設定、菅秀磐が城代となる。戦国期は浅舞刑部、文禄〜慶長は小野寺義道の子、左京進光道と伝えられる。元和八年一国一城令により破却

<浅舞一揆と小野寺友光>
浅舞一揆の様子は「景勝公御一代略記」に記述されている。
さらに菅江真澄は「六郡郡邑記」で浅舞館について「小野寺義道の子左京進光道住居ス」とあるを「こは小野寺左京亮友光ぞまことなる」とした上で、友光塚と友光の墓標をスケッチして一揆騒動を起こした友光の逃走経路まで詳細に述べている。
真澄が当地を訪れた頃はまだ一揆騒動の模様が根強く伝承されていたのだろう。

木村常陸介は命を受けて最上義光と共に羽州に入り国中を視察した。しばらくして仙北の浅舞に至りしところ最上家臣鮭延秀綱の従者と上杉景勝の士が不慮のことから口論を始めた。浅舞の郷民は上杉の士に与力したので闘争に発展し双方共に死者五,六人を出した。上杉氏、最上氏の検使が立会い事件を処理し、始終の事情を聞き究明し郷人六、七人を処刑し事件は落着した。これにより木村氏は秋田に入り、大谷吉隆は仙北に入った。この時に仙北の郷人が一揆を起こして大谷衆は敗走した。木村常陸介は最上義光に通報し大谷吉隆を救うために鮭延秀綱に一揆鎮圧を命じた。

浅舞城跡標柱。公民館と神社が建っています。

周辺には水路が廻らされています。

浅舞城は琵琶沼より水を引き入れ水城だったそうです。その名残と思われる水辺が点在しています。

琵琶沼。秋田県指定天然記念物トミヨ及びイバラトミヨ生息地でもあります。

近くには県指定天然記念物の「浅舞のケヤキ」通称:槻の木、昭和43年3月19日指定。

指定当時で樹齢約500年、幹まわり8.3m、樹高35mがある。

たかつか。

佐竹藩主義隆公御来遊の時に義隆公の御鷹が逃げてしまいそれを六日町に住む浪人が知らずに縫い針を手裏剣に見立てて鷹の目を射抜き殺してしまった。その事が評判となり浪人は藩公の鷹を殺したことに驚き逃亡してしまった。

しかし、義隆公は鷹よりも浪人の武芸を愛でて捜索させたが行方は分からなかった。その鷹を埋めた塚である

寛政七年に設けられた御役屋門(平鹿郡奉行所)。今は、浅舞感恩講保育園になっています。