黒沢館
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所在地 | 横手市山内黒沢字石田 |
様式 | 山城 |
築城年代 | 天文年間 |
落城・廃城 | 慶長六年(1601年) |
築城者 | |
主要城主 | 黒沢氏 |
遺構 | 曲輪 堀切 空掘 |
おススメ度 |
<歴史・概要> 通称城ノ平に平坦面が5面認められる。中央の主郭は東西約40m南北70m。主郭の東西両辺に幅約3m深さ約1mの空掘各1条とこれに伴う土塁が見られる。主郭の南にも堀切がありさらに南に続く尾根との間を切断。山裾に根小屋・寺屋敷が付随し陶製の食器片が出土している。 小野寺興廃記によれば当時境上を争った和賀氏への境目城で天文年間の築城。黒沢長門・甚兵衛が居城。 「奥羽永慶軍記 巻三十六 佐竹義宣、国替の事」に黒沢館他数十ヶ城が破却されたとの記述がある。 |
<黒沢氏> 黒沢氏は横手平城の乱、和賀・山北合戦、大沢山合戦、岩崎合戦、大島原合戦などに参陣している。黒沢一族では、黒沢長門守・和泉守道家、藤吉、志摩などが、奥羽永慶軍記に名を残している。 黒沢道家は小野寺義道に近侍し家臣帳に「若家老 黒沢甚兵衛」とある。八柏道為の暗殺や数々の合戦に参陣している。小野寺義道の改易・配流時は流刑地・石見国津和野(島根県津和野町)まで同行した。 国替えで佐竹義宣が秋田に入部した際に領内全域にわたる検地が実施され指揮を命じられた渋江政光の下役に黒沢道家が登用された。 大阪冬の陣今福合戦では活躍目覚しく徳川秀忠より感状を賜った。 |
館内に入りましたが物凄い藪で探索も困難でした。 |
藪に行く手を阻まれながらも辛うじて堀切を発見。 |
堀切。幅・深さ共に小さいです。苦労して登った割りに状態がイマイチだったのと黒沢氏の功績と比べると随分地味な城館でした。 |
空掘か?それにしては浅すぎます。だいぶ埋まってしまったのかも知れませんが・・・ |
山裾の平坦面。根小屋と寺屋敷はここにあったのでしょうか・・・ |