金沢城



所在地 横手市金沢中野字小井戸ヶ沢
様式 山城
築城年代
落城・廃城 元和八年(1622年)
築城者
主要城主 金沢右京亮 金沢権十郎 梶原美濃
遺構 本丸 二の丸 北の丸 西の丸 武者溜 兵糧倉 空掘 堀切 土塁
おススメ度

<歴史・概要>
後三年の役の旧跡として有名だが清原家衡・武衡一族滅亡後も長禄二年(1458年)に南部氏家臣金沢右京亮が入り文明二年(1470年)まで居城した。
その後仙北郡から南部氏勢力を排除した小野寺泰道の臣金沢権十郎らが居城。小野寺氏改易後は佐竹氏の梶原美濃が城を受け取り元和八年に廃城。
本丸(東西約80m南北50m)二の丸(東西約65m南北33m)北の丸(東西約20m南北25m)西の丸(東西約25m南北68m)武者溜(東西約25m南北68m)兵糧倉(東西約13m南北8m)の連郭性削平地である

<後三年の役>
平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役である。前九年の役の後、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである
当初沼の柵で清衡・義家連合軍に勝利した家衡だったが武衡の進言を受けて金沢の柵に居城を移した。1087年(寛治元年)、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めたが難攻不落の金沢柵は中々落ちず吉彦秀武が兵糧攻めを提案しこれによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走した。

金沢城(金沢柵)は城址公園となり市民の憩いの場となっています。

金沢城説明板。訪城の際はご一読をお勧めいたします。

景正功名塚。後三年の役に十六歳で初陣を飾った鎌倉権五郎景正が源義家の命で敵の屍を葬った塚と伝えられています。

昭和天皇が皇太子の時に訪れ横手平野を眺めた地。眺望に優れています。

御野立所からの眺望。水を湛えた水田がきれいでした。

岩清水

塹壕跡

堀切跡と思われる通路。

西の丸(安本館)へ続く道。

西の丸(安本館)。

西の丸(安本館)に空掘が設けられ武者溜と区割されています。

西の丸(安本館)武者溜。

西の丸の背後は急峻な崖となっています。

兵糧倉跡。炭化した米が出土したそうです。

本丸跡


北の丸跡。土塁が確認できます。


北の丸空堀。

二の丸を見上げています。

二の丸には金沢八幡神社が建っています。源義家が後三年の役に勝利したのち藤原清衡に命じ寛治7年(1093) に創建されたそうです。

兵糧倉(左)と二の丸(右)を分断する空掘。

二の丸の切岸。

城跡には十六羅漢像も祀られています。

後三年合戦金沢柵推定地

金沢城跡発掘調査現地説明会



2015年9月25日
2016年10月22日