<所在地>
茨城県石岡市総社一丁目10番
<歴史・概要>
府中城は,第15代大掾詮国が正平元年(1346)より数年を費やして築城したものである。東西500m,南北400mで,本丸・二の丸・三の丸・箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え,また幾重にも巡らし,当時としては堅固な城郭であった。
第24代,大掾清幹の時,天正18年(1590)12月,佐竹義宣に攻められ,城は堕ち650年続いた常陸大掾氏は滅亡した。大掾氏滅亡以前を府中城と称し,滅亡後には城郭は築かれることはなく,城跡一帯を呼称として,府中城または城中山などと呼んでいる。現在,残された土塁は,市の史跡に指定されている。
今からおよそ300年前の元禄13年(1700)9月、江戸小石川の水戸徳川家上屋敷を訪れた将軍・徳川綱吉は、時の水戸藩主・徳川綱條(つなえだ)の叔父にあたる松平頼隆に2万石を与え、大名に取り立てました。このとき頼隆に与えられた所領は、陸奥国岩瀬郡長沼18か村と、常陸国の行方郡9か村、茨城郡3か村、そして今の石岡地域を含む新治郡府中7か村。これにより、現在の中心市街地を含む石岡地域(以下「府中」)は、府中松平藩(以下「府中藩」)の支配を受けることになりました。なお、府中藩支配下の府中は、制度上「平村」と呼ばれましたが、一般には幕末まで「府中」の名が親しまれていたようです。
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