<所在地>
大館市字中城、三ノ丸、桂城、長倉、片町、上町
<歴史・概要>
源頼朝の奥州征伐の後、この地には御家人浅利氏が配され地頭職となったのが、比内浅利氏のはじまりとされているが、大館城の歴史は浅く、天正10年(1582年)以前に浅利勝頼により築城されたとされている。
戦国時代、この地は浅利氏、南部氏、秋田氏(安東氏)、津軽氏の係争の地となる。浅利氏は勝頼の死後、それを継いだ浅利頼平が慶長3年(1598年)に急死し断絶し、秋田氏(安東氏)が勝者となり、豊臣政権下において、この地は秋田氏の所領となった。
関ヶ原の戦いの後、秋田氏は常陸国に移封され、かわりにこの地は常陸国から移封された佐竹氏が支配することになる。一国一城令の例外としてこの城は横手城同様に存続を認められる。戊辰戦争の際に南部氏が大軍で攻めてきたため、城は大館城代の佐竹義遵(佐竹大和)が自ら火を放ち、堀などの遺構を残して全焼することになる(大館城攻城戦)。この際焼け残った城門を移築したものと伝わる門が一棟市内新町の民家に現存するが、どこの門を移築したものかわかっていない。
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