鮭延城


<所在地>

山形県真室川町大字内町字古城

<歴史・概要>

真室川町の南端にある内町集落の北北東に位置し、丘陵を舌状台地状にしてその上に中心城郭を造った。この舌状台地は、標高110mから115mの高さにあり、東南東より北北西方向に延びている。

中心城郭があった所からみて、西側に真室川が流れ、南側に薬師沢、北側に近江沢が流れている。東側は雑木林の平坦地が続くが、人為的なのか自然なのか馬の背状に急にせばまった所に、後述する堀切や土塁で境界を造っている。なお西側斜面は国鉄奥羽本線工事によってほぼ破壊されている。南斜面も地滑り防止工事によって一部破壊されている。

城歴の概要については、いろいろみられが概ね次のようにとらえる。佐々木貞綱は仙北の城主小野寺氏に仕えていたが、天文4年の時に、鮭延荘を賜り、鮭延城を築いた。その後、氏孝、秀綱と続き、秀綱16歳にして城主となり鮭延越前秀綱と称した。一方最上義光は天正9年に大軍を送って、鮭延城を攻めた。当時18歳の秀綱はこれと戦うが、敗戦し、最上氏の配下となる。しかし功多く、重臣として仕える。元和8年最上家の改易により、幕府老中土井利勝に預けられ、正保3年に土井家にて死去した。元和8年の最上家の改易と同時に、鮭延城も一部破却されたが、新庄藩祖戸沢政盛は、一時期仮城として鮭延城に居を構えた。戸沢政盛は寛永2年に新城を築き、藩主以下家臣は全て新城に移り住み鮭延城は廃城となった。