小野寺義道



氏名 小野寺義道
生年 永禄九年八月五日(1566年8月19日)
没年 正保二年十一月二十二日(1646年1月8日)
所在地 島根県津和野町森村 本性寺
小野寺家13代輝道の次男。
孫十郎・弥七郎・綱元と称す。従五位下・遠江守。
小野寺家の最盛期を築いた輝道の跡を継ぐが支配下にあった鮭延城主鮭延秀綱が山形城主最上義光に降り
その後も支配下にあった由利十二頭や近隣の最上義光や戸沢盛安と戦う。
度重なる戦で次第に勢力が弱体化し太閤検地の際には領内で検地に抵抗する一揆が発生し所領の1/3を没収される。
没収された領地(湯沢・雄勝郡)が仇敵最上義光に与えられたことにより実効支配する小野寺氏と領有を進める最上氏との間で激しい衝突が繰り
広げられる。

関が原合戦の際には初めは東軍方に付き最上義光と行動を共にしたが
西軍方の上杉景勝討伐軍が下野国小山で反転西進すると上杉家老直江兼続が最上領に侵攻を開始。
その際小野寺義道も湯沢・雄勝郡の旧領奪還を目指し最上方湯沢城を包囲する。
しかし、関が原で西軍敗退の報が伝わると出羽諸将の攻撃を受け降伏。
所領没収の上、石見国津和野に流刑。同地で死去する。

武勇に優れているが思慮は浅く謀略に掛かった義道は家中一の知将八柏道為を暗殺したり、
友好関係にあった由利十二頭の猛将大井満安が頼った小野寺茂道の西馬音内城を包囲し大井満安を自害に追い込んでいる。
その一方で流刑地津和野で庇護を受けていた津和野藩主坂崎直盛が
千姫事件で自害すると墓を建立しその恩義に報い人情味のある一面も覗かせてる。